29『クラコフのゆうぐれ』

 どうして、捨ててしまったのか。振り返
ってみれば、泡立つ海、遠ざかる島。そん
な気分だった。 友達になれたかもしれな
い奴、歩いたかもしれない路地。手がかり
は、失せてしまった。



 そいつは、正確に4回あらわれた。まず、
坂の途中にいて、チェロを弾いていた。
"カフカの部屋"からの帰り道、だらだら
歩いていて、ばったり出会った。いわゆる
路上の楽士なのだろうが、ねだるそぶりな
んかしなかった。カザルスというよりは、
ジャックリーヌ・デュプレ。いきなり引き
ずり込む、憑かれたような演奏だった。別
れるときに、手にした弓を、ハンカチがわ
りに大きく振った。

 次は、いつだっけ。そうだ、カレル橋の
ふもとのディスコテック。踊らないで、階
段に坐っていた。ロシアの猟犬みたいに、
静かにして、フロアを眺めていた。たっぷ
りと長い髪で、取り巻きもなく。フロアで
は、ぎこちなく狂騒して踊る、プラハの青
年あるいは娘たち。

 また会ったね。

 差し出した文庫本のどこかに、税関で
咎められたように、おずおずと書き込んだ。
見たことのない筆跡で、見たことのない文
字を。名前よりも、住所が気になった。
 
 コレ、なんて読むの?
 ク、ラ、コ、フ


 会わなけりゃいけない奴を見逃したりし
ないように。生まれてこのかた、それだけ
が気がかりだった。一人きりの歩哨、だれ
に頼まれた訳じゃない。しなけりゃいけな
いことは、ほかにはなかったんだ、あいに
く。ほかのことは、うっちゃっておいた。


 それから、次は、ホテルを出てタクシー
に乗って、いざ走り出そうという時。横を
見たら、大きなドタ靴と、チェロが目に入
った。運転手に叫んだ。

 待って、友達がいた!

 降りて、そそくさと抱き合って、そそく
さと別れた。うれしいというよりも、転々
としてきた疲れで、物憂かった。別れると
きには、いつも不機嫌になる。
 ウィーンに戻って、バレエを観たんだっ
け?マラーホフが、手負いの鹿になって、
高く跳んだこと、それしかおぼえていない。
終わってから、通訳をしてくれていたウィ
ーン大学のヴェラも交えて、ホワイトアス
パラと白ワインではじめて、たっぷりとし
た晩飯をとった。それから、どうしたっけ?
風に吹かれながら、広場の方へそぞろ歩き
をしたんじゃなかったか。
 通りすぎようとして、目の端に入ったも
のがある。大きなドタ靴!チェロの足!
ゆっくり見上げてみれば、やっぱり、そう
だ。


 それから、みんなで肩を組んで、もつれ
るようにして坂道を下りて、小さな酒場で
グラスを剣のように刺し違えた。
 あんまり親しくなると、崖っぷちに立っ
ているようで、不安になってくる。それを
紛らわせるには、酔っぱらってしまうしか
ないんだ。
 店を追い出されて、夜更けの路上で、チ
ェロの独奏がはじまった。4,5曲くらい
で、警官がやって来て、命令した。
 どこかへ、行きなさい。


 クラコフは、どんな町だろう。住所を記
した文庫本は、どこかへ捨ててしまったか
ら、もう手掛かりはなくなったかれど、い
つか降り立つことがあるかもしれない。
 駅を下りて、あてもなく歩き回っている
うちに、石造りの家並みから、懐かしい響
きが聞こえてくるんだろうか?そして、さ
もあたりまえみたいにいうんだろうか?

 また、会ったね■